えんかん舎 的 言語人生

Juli 2025



Kazuo Iwamura / 作

Susan Bolling / 訳

1987 Skandinaviska bokförlaget (Gävle)

 

 

『ぱろ・ぴこ・ぽろの ゆうだち』 1986 至光社

上記絵本を改題 『ゆうだちのともだち』 2002 至光社(国際版絵本―こりすのシリーズ)

いわむら かずお (岩村 和朗)・作

 1939東京都生まれ。 東京藝術大学工芸科卒。 1975栃木県芳賀郡益子町に移り住み、1998栃木県馬頭町(現・那珂川町)に「いわむらかずお絵本の丘美術館」を開館。

 

 今回は、いわむら かずお の『ぱろ・ぴこ・ぽろの ゆうだち』、『ゆうだちのともだち』のスウェーデン語版です。

 

 まずは、名前のことから。 子リス3匹の名前が、ぱろ・ぴこ・ぽろから Nisse, Stisse, Nina に名前が変わっている。 リス家族の名は、Nötberg (Nut mountain)と名が付けられている。 そして、もともと原作では名前のなかったカエルと子ウサギ、ネズミの兄弟にも名前がつけられている。 

カエル→ Grodan Gröning (Frog Green

子ウサギ→ Konrad Kanin (Konrad Rabbit

ネズミの兄弟→ Monika, Mauritz

 また、原作では、単に「もり」としか書かれていなかったものが、 Mörka skogen (Dark forest)と名付けられている。 スウェーデン語版では、登場人物や地名すべてに名前がついていないと気が済まないようだ。

   

では、違いを見ていくことにしましょう!

・ まず、日本語原作とスウェーデン語翻訳版を比べてみると、日本語原作は、自然情景を描くことに優れている事に気付かされます。 例えば、ラストシーンでは、スウェーデン語版の場合、ネズミたちが「明日もまた会おうね」と言って終わるのですが、日本語原作では、「もりで かなかなぜみが なきはじめました」というように自然情景が効果的に挿入されています。

 「はっぱから しずくが ぽと ぽと おちてきます。 ねずみの おんなのこの めからも、 しずくが ひとつ おちました」(p20)など、自然と登場人物との融合がとてもうまく描かれていて、実に詩的な情景です。

 また、日本語原作では、「あめに うたれて、くさたちも おおさわぎです」(p6)、「あめが うなりました」、「きのはが あめの なかで おどっています」(p14)のような自然の擬人化が多くなされていますが、スウェーデン語版ではそのような表現は難しいためか、すべて省略・割愛されていたり、絵に描かれている登場人物たちの行為、表情から訳者がセリフを作り出したりしています。 

 

・ 一方、スウェーデン語版では、絵から内容をくみとった登場人物の性格描写に非常にすぐれています。 また、日本語原作では、子リスはポロの名ばかりが登場し、ポロが主役のようなのですが、スウェーデン語版では3人でうまく役を分け合っています。 

例を挙げると、

 1. 原作では、穴の中にいたネズミに、「きみたちも あまやどり?」と聞いたのが誰なのかわかりませんが、スウェーデン語版では stisse が Blev ni också våta? (「君たちも濡れたの?」)(p10)と尋ねたことになっています。

  2.スウェーデン語版では、雨が上がった後、顔を出して Det har slutat att regna.(「雨がやんだよ」)(p18)と言うのは Nisse になっているが、原作にはこのセリフはない。 実は、絵で顔を出しているのはポロ( stisse )なのだが・・・。 

 3.原作では「みんなで しーそーを やろう」(p20)と言うのもポロだが、スウェーデン語版では Nisse と Stissse の二人ということになっている。

 4.原作では、子ウサギが自分で穴に駆け込んできたことになっていますが、スウェーデン語版では、 Nina が困っていた子ウサギ Konrad に気付いて、 Kom hit fort! (「早く、こっちよ!」)(p13)と呼びかけて、 Konrad を助けているような印象を受けるシーンに仕上がっている。 また、原作にはまったくないのに、スウェーデン語版では、 Nina がネズミの女の子 Monika を(p20の絵のように)気遣っているセリフがある。 このように、 Nina は他人を思いやるやさしい女の子に描かれています。

 また、子ウサギ Konrad は、リスやネズミよりも身体が大きいので(絵のように)皆を守ろうとするようなところのある男の子に描かれています。 このように、 Nina と Konrad の二人の性格描写がうまくなされていて、スウェーデン語版では、まるで、この作品の主役は、 Nina と Konrad の二人であるかのように描かれています。 ラストでは、原作にまったくない Nina と Konrad の会話を入れて、 Nina が Vet ni vad vi är? (「私たち(の関係)って、何だかわかる?」)と尋ねると、子ウサギ Konrad が Vi är vänner i ur och skur, så klart! (「ぼくたちは、雨が降っても、晴れても、友だちに決まってるじゃないか!」)と答えさせている。  変に勘ぐるならば、訳者は、まるで、この二人を結びつけようとたくらんでいるかのようなストーリーに仕上がっているのです。 どうも、訳者は Nina と Konrad の二人にだけ感情移入しすぎのようです。

 

 日本語原作とスウェーデン語翻訳版の違いは、「自然と一体化して生きてきた日本人」と、「人間中心の西洋文明」の差が出ているのかもしれません。




















 
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< Der kleine Fuchs und das Fahrrad >

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小野洋子・作
 1938神奈川県生まれ

いもとようこ(井本蓉子)・絵
 1944兵庫県生まれ

Irmtraut Wittenburg・独訳

1983.11 佼成出版社
? Saatkorn-Verlag GmbH (Hamburg)


 今回は、『きつねいろの じてんしゃ』です。 絵本をパラパラっと見て、最初、頭に浮かんだことは、「日本人の間では共有されている“キツネが化ける”ということが、ドイツ人にも通じるのだろうか?」ということだった。 あるいは「ドイツにもそういった考えがあるのだろうか?」などとも思ったのですが・・・。
 実際に読み比べてみると、驚きの結末が待っていました。


 では、まずは、少しずつ相違点を見ていくことにしましょう。

・ (p4)  どうだんのしげみ → Azaleenbüsche

・ (p8)  自転車が欲しいというクンに対して、お母さんの言葉は、日本語原作では「だめですっ」の一点張りだが、独語版では、
" Kun, sei vernünftig. Wir können uns das nicht leisten. Oder
möchtest du, dass ich noch mehr arbeite und dann gar keine Zeit mehr für dich habe? "
と理由を説明して論理的に説得している。 理屈っぽいドイツ人らしいなと思ったのだが、実は、この文章が書きこまれた理由は、それだけではなく、後の話の展開のために必要不可欠だったからなのでした・・・。

・ (p14) 独語版は、原作の言葉を翻訳することより、絵の説明に終始している。
  「のぶどうのまえでは すいっと とまってくれるのです」
 (原作の文字はカーブを描いている)
→Und ganz enge Kurven fährt es auch.

 原作では、手離し運転している絵には何の説明もない。
→Man kann die Füßehochnehmen.

 「まがりみちは ひとりでに ハンドルがまがる」
 (絵はハンドルの上で逆立ちするクン)
→Sogar Handstand kann man darauf machen.

・ (p22)  クンがとこちゃんに自転車を返してという場面で、日本語原作では、理由などまったく問うていないにもかかわらず、独語版では、とこちゃんが、クンの心変わりを " Warum denn? " と問うているのに対し、クンが " Och, nur so. " と、曖昧に誤魔化した答えを返している。 


 そして、ここから先は原作とは違うお話となっていく。 翻訳者が物語を創作していくのである。

・ (p21)  クンが、あの自転車はお母さんが化けていたものだったということに気づく物語の山場のシーンで、独語版は
" Oh nein! Mama ist bestimmt ganz früh arbeiten gegangen,
damit sie das Fahrrad bezahlen kan. "
ということにしている。

・ (p23)  「うん。いちど ばらばらにして、それから なおすって」
「ひゃあーっ」 という、クンの緊張感と危機感漂うシーンにおいて、独語版では、
" In welche Richtung ist er gefahren? "
" In die Stadt. Dort entlang. " と、会話を創作している。

・ (p28-31)  クンがトラックに追いつき、無事、お母さんを救出、キツネの姿に戻ったお母さんと一緒に帰っていくラスト・シーンで、独語版は、

Tokos Vater bekommt einen Tüchtigen Schreck.
Er hält das Lastauto an und fragt: " Was ist denn los? "
Kun erzählt ihm, dass er das Fahrrad zurückgeben will, damit
die Mutter nicht so viel arbeiten muss. 

" Dann bringe ich dich am besten nch Hause ", schlägt tokos
Vater vor.

Auf einem Hügel in der Nähe des Fuchsbaus sucht Kuns Mutter schon nach ihrem Sohn.

Als Kun sie sieht, läuft er in ihre Arme und ruft: " Mama, Mama. Ich brauche doch gar kein Fahrrad. "

Tokos Vater lächelt und winkt.
" Macht's gut,ihr beiden. Morgen bringe ich dem Händler das
Fahrrad zurück. "

Die Sonn geht unter.
Kun kehrt mit seiner Mutter in den Fuchsbau zurück. 

となっている。 「お母さんキツネが自転車に化けていた」という物語のメインの部分を変形させてしまったがゆえに、話の筋をまったく作り変える必要に迫られたわけだ。 

 結局、「ドイツ人読者は、“狐が化ける”という事を理解できないし、受け入れられないだろう」と考えた翻訳者と出版社が、話をまったく作り変えてしまったということなのだろう。
 しかし、このお話は「狐が化ける」ことによって成り立っているのにもかかわらず、それを無視して、無理に話をこじつけて創作してしまったため、独語版では「つまらない三流のお話」になってしまっている。 どうして、原作者はこの翻訳版の出版に同意したのだろう? 昭和の時代では、ドイツ語に翻訳されるというだけで名誉なことであり、文句などいう状況ではなかったのだろうか?

 どうして、オリジナルのまま訳して、別に解説を入れて、「キツネは化ける」ということを共有する日本人の文化をドイツ語人に知らしめようとしなかったのだろうか。 理解しがたい、自分たちには考えも及ばない他者の文化を知ることが、他者理解の第一歩だと思うのだが。

 そして、彼らにとっては摩訶不思議な日本の文化に興味を持ったドイツ語人の子供たちが、将来、日本の言語や文化を学び、日本とドイツ語圏との「異文化の橋渡し役」になってくれたかもしれないのに、せっかくのチャンスをふいにした、実に残念な話だと思う。 絵本を出版するのにも将来を見据えた理念が必要ということなのだよね。



ドイツ語の語句に関しては http://deutschehon.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/der-kleine-fuch.html を参照














 
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